瀬戸内寂聴の若い頃画像が別人!不倫3回と子どもを捨てたクズな過去!

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2021年11月11日に瀬戸内寂聴さんが亡くなられたことがわかりました。

瀬戸内寂聴さんと言えば「不倫をしてでも恋しなさい!」と自身の説法の中でもよく口にされているぐらい恋に生きた女性としても知られてますね。

 

不倫という言葉に嫌悪感を抱く方も多いと思いますが…

 

実は瀬戸内寂聴さん自身、僧侶でありながら99年の人生の中で3回も不倫していたという衝撃の人生を送ってたのです。

 

また瀬戸内寂聴さんといえば、僧侶である故に坊主頭がトレードマークでもありますね。

瀬戸内寂聴さんが3度の不倫から僧侶になるまでの半生や、髪の毛があった時代が気になる方もいらっしゃると思います!

 

そこで今回まとめたのは、、、

 

・瀬戸内寂聴のプロフィールは?

・瀬戸内寂聴の若い頃の髪の毛あり画像は?

・瀬戸内寂聴の3度の不倫遍歴とは?

・瀬戸内寂聴さんの子供は?

 

ということについてまとめていきたいと思います!

 

 

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瀬戸内寂聴のプロフィール

 

本名 瀬戸内晴美(せとうちはるみ)

ペンネーム 三谷晴美(みたにはるみ)

生年月日 1922年(大正11年)5月15日(99歳)*2021年10月時点

出生地 徳島県徳島市塀裏町(現在の幸町)

最終学歴 東京女子大学国語専攻部

職業 小説家

活動期間 1956年 –

僧位 権大僧正

 

ペンネームというのは小説家でもある瀬戸内寂聴さんの執筆活動の際の名前です!

 

瀬戸内寂聴さんは三谷家の次女として生まれています。実家は仏壇店でした。

 

出家時に僧侶になられたイメージですが、実は仏教の世界とも身近だったのですね。

 

寂聴さんが徳島高等女学校時代に父が養子縁組をしたことで苗字が三谷から瀬戸内に変わりました。

 

僧侶になる前、寂聴さんは最初『修道女』になろうとしたそうです!

しかし、教会側は厳しく「夫とと3歳の娘を捨て、不倫相手と暮らすような者を受け入れられない」とあっさり断られています。

 

その後出家を決意しますが、多くの寺院でも断られていたそうです。

 

心機一転とはいえ、やはり3度の不倫とわが子を捨てたという事実は寺院としたら受け入れ難かったのかもしれませんね。

 

得度式の様子です。

 

瀬戸内寂聴さんがなぜ僧侶になりたかったのかというと、出家することになった要因として不倫相手の男性との縁を断ち切るためとも言われています。

 

しかしそれだけではなく、それ以上の理由としておいてきた娘への後悔だったのでは?とも考えられますよね。

 

瀬戸内寂聴さんは3度の不倫をし、作家として成功をおさめます。

そして1973年・51歳の時に出家することになり、その後は僧侶として人生を過ごしています。

 

 

 

 

瀬戸内寂聴の若い頃が別人!

 

若かりし日の瀬戸内寂聴さんはまだ出家もしていないので髪の毛もあります(笑)

 

 

かなりの毛量に衝撃ですね!笑

当日の流行りの髪型だったのでしょうか?

そしてとてもおしゃれな雰囲気で、年頃の女性らしくファッションやオシャレを楽しんでた瀬戸内寂聴さんの様子が伝わってきますね!

 

 

こちらはまたしっとり落ち着いた和装の瀬戸内寂聴さんです。

この頃はすでに作家として活動していた頃と思われ、落ち着いた様子になってますね。

髪の毛があるだけで全然別人にみえてしまいます。

 

若い頃の瀬戸内寂聴さんは、オシャレを楽しむどこにでもいる普通の女性だったのかもしれません。

 

 

そんな寂聴さんですがこの出家するまでの人生で「不倫人生」と言われる恋多き月日を過ごしています。

 

瀬戸内寂聴は若い頃に3回不倫した遊び人だった?

 

瀬戸内寂聴さんは1942年東京女子大学在学中の20歳の時にのちに夫となる9歳年上の酒井悌氏とお見合いののち、1943年2月に結婚します。

20歳というと早い結婚ですね!

当時は結婚は若くしてするイメージがありますが、瀬戸内寂聴さんもその流れだったのかもしれません。

夫の酒井悌氏は大学の先生などされていたそうです。

とても立派な方ということで経済的にもとても裕福な暮らしをしていたと想像できます。

 

ここから瀬戸内寂聴さんの3度の不倫と子供を捨てた衝撃の人生がはじまるのです。

 

寂聴年表

1942年8月 見合い~結婚

1943年2月 徳島で結婚。夫・酒井氏北京に単身赴任

1943年10月 夫の元へ北京に渡る

1944年8月 娘出産

1945年6月 夫が現地で召集

1945年8月 終戦、夫戻る

1946年8月 北京から親子三人徳島に引揚げる

1947年秋 一家三人で上京

1948年 夫と子供を残し家出し夫の教え子のいる京都へ

1950年2月 正式に協議離婚

1951年小田仁二郎と出会い不倫関係

1959 小田仁二郎 元夫の教え子と三角関係

1966 井上光晴と不倫関係

 

 

瀬戸内寂聴の1回目の不倫は?

 

寂聴さんの最初の不倫相手は夫・酒井悌氏の教え子で文学青年でした。

 

寂聴さん25歳、不倫相手の青年は21歳だったそうで、瀬戸内寂聴さんの方が年上でした。

 

そして瀬戸内寂聴さんはこの浮気を夫の酒井悌氏に事実を告げてしまいます(笑)

 

既に娘さんも生まれてただけに当然酒井悌氏は激怒!

そして2人を別れさすべく瀬戸内寂聴さんと娘を連れて上京します。

 

いったん上京しますが、寂聴さんは文学青年のいる京都に子供をおいて家を出てしまいます。

 

一部では夫の酒井氏の暴力もあったのでは?

と言われていますが、真相はわかってません。

 

青年の元に戻った瀬戸内寂聴さんですが、浮気相手の青年には夫とまだ幼い子供を残して家を出てきた寂聴さんが”重かった”ようです。。。

 

ここで一度目の不倫が幕を閉じます。

しかし一度飛び出た家にはもどるわけにもいかなかった瀬戸内寂聴さんは娘を残したまま、作家となります。

 

ここまでですでに映画やドラマにある様な”不倫愛”ですよね(^_^;)

 

そして瀬戸内寂聴さん28歳の時に夫の酒井悌氏と正式に離婚が成立します。

 

そして小説家としての活動と独身としての生活がスタートします。

 

寂聴の2回目の不倫は?

 

2回回目の不倫相手は同人の先輩だった妻子持ちの作家・小田仁二郎氏です。

 

瀬戸内寂聴さん自身が書いた小説の原稿をみてもらったことで親しくなっていったようです。

 

 

のちに作家・瀬戸内寂聴の師としても知られていることになった人物でもあり、公私共に深い付き合いだったようです。

 

小田仁二郎氏は超貧乏作家だったようです。

2人が出会って旅行に行きますが、超貧乏旅行だったというエピソードもあった様ほど(笑)

 

寂聴さんの1963年女流文学賞受賞し、出世作となった『夏の終わり』には小田仁二郎氏との”深い”関係についても描かれています。

 

無口で非社交的で、経済力のない、世間の目から見れば頼りない男の典型のような慎吾に、知子は全身の鍵をあずけたようなもたれかただった。

 

引用元:瀬戸内晴美「夏の終わりに」

 

不倫とはいえ、順調だったように見えた二人ですが、この時に一番目の不倫相手と10年ぶりに再会をします。

 

再会した男性は、当時の文学青年の雰囲気はなく、見るからにすさんだ感じで別人に変貌していたと言います。

 

そんな彼を寂聴さんはどうしても放っておけない気持ちになり、再び関係を持ってしまいます。。。

 

小田仁二郎氏と最初の不倫相手の男性と二股関係を続けた瀬戸内寂聴さん。

 

この不倫三角関係の結末はというと..

 

瀬戸内寂聴さんは小田仁二郎氏と元教え子の両方との別れをしたそうです。

 

瀬戸内寂聴さんの中で出会ったころこ印象でなくなったのが決定打だったとも言われてます。

 

そして元教え子の男性はその後、自身の会社が経営がうまくいかず、自らの命を絶ってしまったというエピソードも有名です。

 

寂聴の3回目の不倫は?

寂聴さんの3回目の不倫相手は妻子のいる小説家の井上光晴氏でした。

 

井上光晴氏には娘・井上荒野さんがいます。

娘荒野さんは、井上光晴氏が亡くなった後に、瀬戸内寂聴さんと父の小説を書くために寂聴さんに直接取材されているというエピソードも。

 

その井上荒野著・長編小説『あちらにいる鬼』は当時かなり話題になりました!


こちらは最近映画化も決まったようで、早くも話題になっています。

 

寂聴さんと井上光晴氏の不倫関係は井上荒野さんが5歳〜12歳の頃の7年間続いていました。

 

荒野さんが1961年生まれなので出会いは1966年頃になりますね!

 

改めて思うのは娘として父の浮気相手にインタビューできた荒野さんのメンタルの強さ!!笑

 

余談ですが、この井上光晴氏は寂聴さん以外にも女性がいたと言われています(゚д゚)!

 

不倫三昧の父の事実に荒野さんの気持ちを思うと…(^_^;)

 

井上光晴氏にとって関係あった女性たちからはその時一緒にいる、または目の前にいる女性を喜ばせるための言葉を持っていたと言われていて、とてもモテた方だったようです。

 

そんな井上光晴さんと不倫をしてた瀬戸内寂聴さんですが、この時の不倫を

 

良心の呵責に苛まれた』と語っています。

この言葉にすべてが込められている様に思えますね。

そしてこのころに瀬戸内寂聴さんは出家を決意します。

 

瀬戸内寂聴さんと井上光晴氏の2人の関係ですご、寂聴さんが出家した以降も井上光晴氏が亡くなるまで”形を変えて”交流は続いていた様です。

 

寂聴さんは父が本当に好きだったんだなということに感動した。父との恋愛をなかったことにしたくないんだろうなって。そこにぐっときちゃったんですよね

 

引用元:好書好日

 

娘荒野さんはこのように語っています。

 

瀬戸内寂聴が捨てた娘の現在は?

 

寂聴さんは1944年娘さんを出産しています。

 

娘のプロフィール

名前:廸子 (みちこ)

生年月日:1944年8月1日(77歳*2021年10月時点)

 

娘の廸子さんは物心ついたときに母親は事故で亡くなったと伝えられていたそうです。

 

瀬戸内寂聴さんは家出をした2年後、5歳になったみちこさんに会いに行ったことがあるそうです。

 

その時のエピソードとして、寂聴さんが「お母さんは?」とみちこさんに尋ねるとみちこさんは『死んだ』と答えたそうです。

 

何も言えなくなった寂聴さんは用意していたお菓子を娘さんに渡して別れるしかなかったと当時のことを話されてます。

 

でも実は娘さんはお菓子をくれたのが母親だと分っていたと後に語っています。

 

みちこさんを置いて家を出た理由を連れていきたかったが現在の様に仕事がなかったので自分では養っていけないと思い、旦那さんの元に置いていったと寂聴さんは話しています。

 

そして瀬戸内寂聴さん96歳の頃の法話の会でこのようにも話しています。

 

「96歳まで生きて何も後悔することはないが、そのことだけはしちゃいけないことをしたと今も思っている」

「娘はまだ4つで、お母さん行かないでとさえ言えないほど幼かった。悪い母親だった」

 

引用元:徳島新聞電子版

 

みちこさんも母親は生きていて、男を作って出ていったという事実を知った当時は相当悲しかったはずです。

そして瀬戸内寂聴さんのことをとても許せるものではなかったと思います。

 

寂聴さんは出家前に娘の廸子さんが結婚すると耳にし、婚礼家具一式をお祝いにと贈ったことがあったそうです。

 

しかし、母親を許せなかったゆずこさんは、そのままその贈り物は寂聴さんの元に返したそうです。

 

しかしその後の2人は寂聴さんが出家した後に関係は修復されています。

ゆずこさんも家庭をもち、何かしら瀬戸内寂聴さんのことを理解できる

 

現在アメリがに住んでいる娘の廸子さん。

今は日本に帰ってくると寂聴さんと会っていたそうです。

 

今回の瀬戸内寂聴さんの訃報に不雑な気持ちもありつつ、実母の死に寂しさもあるかもしれませんね。

 

まとめ

 

本日は瀬戸内寂聴さんの若い頃の画像や3度の不倫経歴と娘ゆずこさんとの関係についてまとめてみました。

 

99歳という大往生だった瀬戸内寂聴さん。

 

恐らく生涯かけて恋に生きた女性としてそのエピソードは語り継がれるのかもしれませんね。

 

ご冥福を祈りつつ、このあたりで終わりにしたいと思います!

 

本日も最後まで読んでくださりありがとうございました!

 

 

 

 

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